英語 「おばあちゃんの英語」
塾のチラシをポスティングしていた時のこと。
洗濯物を干していたおばあちゃんと話をする機会がありました。
おばあちゃんも、一度は「英語の勉強」を考えたことがある、と。
「学生の頃、学校で勉強したんですか?」
と尋ねてみると
「私の頃は、敵国の言葉だったからねぇ…」
と話してくれた。
日本では、特に第二次世界大戦中に英語を敵性言語として教育が行われなかった歴史がある。
再開したのは1951年から。
お話から察するに、おばあちゃんは90代。
自分には想像もつかない程、世界情勢が大きく変動した戦中戦後を生きた世代。
「英語」という言語に対して、全く違う意識。
その世代の方々と話すことが、なんと貴重なことか。もっと話をしていたくなった。
私の祖母の話
祖母がまだ生前に、当時の話を聞いたことを思い出した。
私の祖母は、福島の南相馬市で教員になった。
1945年 終戦の年が 祖母の教員1年目だった。
南相馬には、鹿児島の知覧に行く前に飛行訓練を積む飛行場があったこともあり
米軍の艦載機の空襲が度々あった。
空襲警報が鳴ると、担任する学級の子供たちを防空壕に避難させ、艦載機の音や爆弾の音に怯えながらも、子供たちを守っていたそうだ。
教員前の女学校時代には、「学徒動員」で群馬県に飛行機部品の工場に働きに行った。
3月の「東京大空襲」の夜は、東京方面の空が真っ赤になっているのが見えたと言っていた。
台湾のおばあちゃんの話
もう一つ思い出した。台湾でバイク旅の途中、山の中の集落を歩いていたら、後ろから声をかけられた。
「日本の兵隊さん?」
後にも先にも、そんな言葉をかけられたのは、人生であの時だけ。
一瞬、今がいつでここがどこで、自分が何をしているのか、頭の中で整理が必要だった。
私は台湾語も中国語も話せないので、日本語で、そのおばあちゃんと話をした。
ヘルメットを被ってザックを背負った姿が、兵隊のように見えたらしい。
70年程を越えて記憶が掘り起こされたのか。
なぜか、おばあちゃんは私に家に入るように言った。
私の中に「警戒心」はあったが、「好奇心」が足を家の中に進ませた。
大きな丸いテーブルを一族で囲むように座った。
促されるまま私もそこに座り、おばあちゃんと話をした。一族でおばあちゃんだけが日本語を話せた。
・子供の頃、学校で日本語を教わった
・ご主人は、戦中に日本軍として出兵した
・日本軍は、たくさんのよいものを残してくれた
上の二つは歴史で習う。「日本は台湾を50年間統治した。台湾の子供たちに日本語による教育を施した」
一番下は違う。これは、目の前で懐かしみながら話をする台湾人のおばあちゃんの気持ちだ。
おばあちゃんが子供の頃、「日本語を習うこと」には、台湾の人々の様々な思いがあったに違いない。
「言語を失うことは民族の誇りを失うこと」「新しい社会の中でうまく生き抜くため必要な変化」
時代の流れの中で、日本語を含めた日本文化が、台湾という国の人々の中でどう移り変わっていったのか。
小、中学校の「社会科」で、多くの国のことを学ぶ。それは、日本の教科書から教わる、一つの情報。
様々な国の人たちと話し、互いのことを教え伝え合い、つながっていくことは、それ以上に大切なことだと思う。
社会で共に生きることが、自分たちの新しい歴史をつくることになるのだから。
家を出た後、おばあちゃんの孫とその子供たちが、次の目的地までバイクで先導して送ってくれた。
台湾でよく見かける、一台のスクーターに、母親を挟んで前と後ろに一人ずつ乗るスタイルだった。